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略歴

私は、島根県松江市宍道町の出身で島根県立松江南高校理数科を卒業し、島根医科大学(現島根大学医学部)に入学、2005年に卒業しました。初期臨床研修は地元の松江生協病院で2年間研修し、その後は島根大学医学部小児科に入局し、小児科後期研修は島根大学医学部附属病院や浜田医療センター、松江赤十字病院などを経て、2010年に小児科専門医を取得しました。小児科専門医を取得してからは小児医療のなかでも、新生児集中医療を中心に診療を行ってまいりました。2010年から1年間、東京女子医科大学母子総合医療センターに国内留学し、新生児集中医療について研鑽を積みました。2011年に帰局したあとは、主に島根大学医学部附属病院の新生児集中治療室(NICU)で診療部門のチーフとして約10年あまりにわたり、診療を行ってまいりました。

NICU(新生児集中治療室)での診療

NICUでは日々様々な赤ちゃんが入院してきます。例えば、体重が500gに満たない赤ちゃん、さまざまな生まれつきの病気をもって生まれてくる赤ちゃん、そしてそれを支える家族。長期の集中治療を乗り越え無事に退院して、日常を取り戻していく姿をみると新生児科医をやっていてよかったと心から思えました。また、数多くの症例を経験するなかで、どうしても救命できない赤ちゃん達にも数多く出会いました。それでも彼ら彼女らは1日ごと、いや1分1秒ごとに命を輝かせて、それでも生きようとし、我々やご家族も全力でそれに答えようとします。もちろん「死」というのは悲しいですが、そこには不思議と家族、医療スタッフ全員にやり切ったという達成感や一体感が生まれたものでした。私の好きな考え方に「生老病死」ということばがあります。人間生まれた瞬間から老いて、いずれ病を得て、死に向かっていくわけですが、それには早いか遅いかの違いがあるだけです。NICUの臨床を通して、私は普通に生活していれば経験しないだろうことをたくさん経験させていただきました。

そして、体調を崩す

一方で、生まれてくる赤ちゃんの命を預かり、守るというのは本当に大変な仕事でした。これは医療界全体の問題でもありますが、特にNICUという場所はその縮図でもあります。日本の医療の多くの部分が、医療者の献身や自己犠牲の上に成り立っていて、島根県のような地方ではそもそも新生児科医の絶対数が足りておらず、平時が非常時のような職場でした。そして、頑張れば頑張るほど、どんどん忙しくなるという悪循環にはまっていきました。そのような生活を続けているうちに、知らず知らずのうちに心身ともに蝕まれ、気付いた時にはすでに遅く、2018年の年末に、体調不良をきたしてしまい、大好きだったNICUの仕事を続けることができなくなってしまいました。

療養生活の先にあったもの

長い?療養生活のなかで、おおくのひとに支えられました。私自身これまでの人生で人に頼られることはあっても人に頼るということをあまりしてこなかったですので、母をはじめ、わたしの話を聞いてくれた方にはとても感謝しています。そのなかで「医者の不養生」という言葉が示すように、仕事で自分の健康を害したり、自分の人生や生活を犠牲する仕事というのは本当の仕事を言えるだろうか?と考えるようになりました。これまでできなかったたくさんの本を読む中で、五木寛之先生の著書の中で、「人生とは地獄が一定である」という言葉に出会いました。また、五木先生は人生を生きる意味として、「人生とは、生きる目的を探すこと」とも述べておられます。つまり、そもそも生きるのがつらいのが人生というのであれば、自分がもっと楽でいられて、それでありながら他者に貢献できるものを見つけることが、自分の人生を豊かにし、生きることの意味ではないかと思い至りました。私は医師のキャリアを多くの時間を大学病院で過ごし、新生児専門医、医学博士号まで取らせていただきました。本来であれば自分の専門分野である新生児科医として生まれ故郷である島根県に貢献できるのが一番と思っていましたが、これまでの医者人生を振り返り、恐らく半分は過ぎたと思われるこれからの自分の人生をどう生きたいのかをすり合わせた時に、調子を崩した原因には、仕事以外では社会とのつながりを十分に持てなかったことがあるのではないかと気づきました。その中で、新生児科医として勤めている時に感じた地元松江でNICU卒業したお子さんや医療的ケアの必要なお子さんの小児在宅医療の受け皿が不足していることや松江のこどもたちとその家族の笑顔を守りたいと感じるようになりました。

上田院長先生との出会い

ちょうど新しい生き方を模索している時に、上田直樹院長先生との出会いがありました。クリニックでは木曜日や日曜日も診療を行っており、基本的にどんな患者さんもお断りしない姿は、まさに「いつも頼りになる、家族のかかりつけ医になりたい」というクリニック理念を実践されておられ、共感しました。そして私自身、体調崩す前でしたら新生児科医を引退するということは考えなかったと思いますが、5年後、10年後の自分を考えた時、今の新生児科の仕事は続けられないし、どこにいてもなにをしても医師としての仕事の本質(困っている人の役に立ちたい)に変わりはないという結論に至り、新生児科医という看板を下ろし、新しい開業小児科という道を選ぶことを決意しました。

これからの私

大学の小児科・NICUの勤務で感じた、「地域にこんなクリニックがあったらいいのに」というのを、松江地域の皆さんや新しく一緒に働いていただけるうえだ内科ファミリークリニックの院長先生・スタッフの皆さんと形にできればと思います。あかちゃん・こどもの命を守る医療を提供する島根大学や島根県立中央病院などの高度急性期病院や松江の基幹病院である松江赤十字病院や松江市立病院、松江生協病院をサポートするかかりつけのクリニックの存在が小児の地域医療にも必要と考えています。これまでお世話になった島根大学小児科医局の皆さまや松江地域のこどもたちのニーズに応えるべく、努力をしてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

ゲシュタルトの祈り 

私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。 

私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。 

そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。 

私は私。あなたはあなた。 

でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。 

たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。 

この「ゲシュタルトの祈り」はドイツ人精神科医のフレデリック・S・パールズ(1893-1970)がワークショップの際に好んで用いたとされています。この考え方はアドラー心理学にも通じるものがあり、自分は自分の人生を生きた上で、もし他者と幸せを分かち合う瞬間があるとすれば、人はそれを生きていく意味にすることができるということだと私は解釈しています。ひとは良好な人間関係を築くことに対して幸せを感じる生き物です。ただ、この人間関係ほど難しいものもありません。他者は自分の思い通りにならないものだから、そこに執着しない考え方(そういう考え方もあるのか、あなたはそう感じるのね、だけど私はこう思うわ)を身につければ、人間関係が少し楽になるような気がします。

蓮如の『白骨の御文』

「一生すぎやすし、いまにいたりて、たれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず。あすともしらず、おくれさきだつひとは、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」

現代語訳:

「人の一生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。(死ぬのは)私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、遅れて死に、先立ってゆく人は、草木の根元に雫(しずく)が滴(したた)るよりも、葉先の露が散るよりも数多いといえます。それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕暮れには白骨となる身であります。