今回は、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」のなかで、幸福とは何か?ということについて書かれていた事柄にとても共感したのでまとめたいと思います。
「幸せは外の世界の出来事ではなく、身体の内でおこっている過程に起因する」
生化学者の主張によると、私たちの精神的・感情的世界は何百万年もの進化の過程で形成された生化学的な仕組みによって支配されている。外的要因ではなく、神経やニューロン、シナプス、さらにはセロトニンやドーパミン、オキシトシンのような様々な化学物質から成る複雑なシステムによって決定される。
例えば、既婚者が独身者や離婚した人たちよりも幸せであることは事実だが、必ずしも結婚が幸福をもたらすことを意味しない。つまり、幸せだからこそ結婚できたのかもしれない。より正確に言えば、セロトニンやドーパミン、オキシトシンが婚姻関係を生み出し、維持する方向に働いている。陽気な生化学的特性を持って生まれた人は一般に幸せで満足している。そうした人々は配偶者として魅力的であり、その結果、結婚できる可能性も高い。逆に彼らは離婚する可能性が低い。というのも生活を共にするなら幸せで満足している配偶者とのほうが、沈みがちで不満を抱えた配偶者とよりもはるかに楽だからだ。
したがって既婚者の方が概して独身者よりも幸せであるのは事実だが、生化学的な特性のせいで陰鬱になりがちな独身者は、たとえ結婚したとしても今より幸せになれるとは限らない。
「幸せは身の内より発する」
お金や社会的地位、美容整形、壮麗な邸宅、権力の座などはどれもあなたを幸せにすることはできない。
永続する幸福感はセロトニンやドーパミン、オキシトシンからのみ生じるのだ。
幸福が快感を覚えることに基づくのであれば、幸せになるためには、生化学システムを再構築する必要がある。
幸福が人生には意義があると感じることに基づくなら、より幸せになるためには私たちはより効果的に自分自身を欺く必要がある。
「あなたに生きる理由があるならば、どのような生き方にもたいてい耐えられる」
人々が自分の人生に認める意義はいかなるものも単なる妄想に過ぎない。
幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではない、幸せかどうかは、むしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものとみなせるかどうかにかかっている。
幸福には重要な認知的・倫理的側面がある。各人の価値観次第で天地の差がつく。有意義な人生は、困難のただ中にあってさえも、極めて満足のいくものであるのに対して、無意味な人生はどれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練にほかならない。
「仏教は人間の奉じる他のどんな信条と比べても、幸福の問題を重要視している。」
仏教は幸福の本質と根源について2500年にわたって、体系的に研究してきた。
多くの人は、快い感情を幸福とし、不快な感情を苦痛と考える。幸せとは快感と等しい。幸せとは肉体的な快感を経験することに他ならない。その結果、自分の感情に対して非常な重要性を認め、ますます多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになる。
快い感情を経験したければ、たえずそれを追い求めるとともに、不快な感情を追い払わなければならない。だが、仮にそれに成功したとしても、ただちに一からやり直さなければならず、自分の苦労に対する永続的な報いはけっして得られない。苦しみの真の根源は、つかの間の感情をこのように果てしなく、空しく求め続けることなのだ。
自分の感情はすべて束の間であることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたときに初めて、苦しみから解放される。
感情の追求をやめると、心は緊張が解け、澄み渡り、満足する。喜びや怒り、退屈、情欲などありとあらゆる感情が現れては消えることを繰り返すが、特定の感情を渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け入れられるようになる。ああだったもかもしれない、こうだったのかもしれないという空想を止めて、今この瞬間を生きることがでるようになるのだ。
真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係である。
事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはそういった感情を一層強く渇愛するようになり、苦しみも増す。
ブッダが教え諭したのは外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をも止めることだった。
まとめ
私たちの幸福は主観的感情と同一視され、幸せの追求は特定の感情状態の追求と見なされる。
対照的に仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのか、あるいは何であるのかを理解することにある。
感情は自分自身とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸に囚われるだけである。